ピンクとグレー

「わたし」が生まれるのは、「わたし以外」が存在するときだ。家族や友人、恋人、仕事相手、街ですれちがった知らない人、SNS上の誰かだったり、たくさんの「わたし以外」と相対することではじめて、ほかのだれでもない「わたし」は存在できる。
そして、すべての「わたし以外」が観測する「わたし」のイメージの中で、人は、やがて「わたしらしい」色をみつける。その色、つまりアイデンティティを信じることで、人は「わたしらしい」人生を描いていくことができる。

それが、芸能界という特殊な世界に身を置く人間ではどうなるか。圧倒的大多数の、多様な人々から観測されることで、芸能人のアイデンティティは強固になり、いろどりゆたかになり、かがやきを増す……一方、あまりにたくさんの色で描かれつづけるイメージの中で、「わたしらしい」色を信じつづけることは難しいのかもしれない。

『ピンクとグレー』を読んで、そんなことを考えた。芸能界に生きる2人の青年の物語だ。同じマンションで育ち、小学校から大学まで、ずっと一緒に過ごしてきた大貴と真吾。とあるきっかけから芸能界入りしたときも、2人は一緒だった。しかし、真吾だけがスターダムを駆け上がっていくことで、2人の仲は決裂してしまう。

前半は、2人の人生がすこしずつ重なっていき、またすこしずつずれていく過程がていねいに描かれる。そして後半、とある「事件」が起きると物語は一気に加速し、数奇で切ないラストシーンに向かって一息に駆け抜けていく。

一つひとつのシーンがリアルな情景として浮かび上がってくる作品だった。後半なんて特に映像にしたらうつくしいだろうなと思ったら、2016年には映画化されていた。(しかも、「真吾は菅田将暉さんっぽいな」と思っていたら菅田将暉さんが演じていたし、大貴役の中島裕翔さんもイメージにぴったりだった。)

さて、冒頭の「わたしらしさ」、芸能人のアイデンティティについて考えたのは、決裂した2人が、再び対面した場面でのこと。

「俺はデュポンを持たなければいけない人間になってしまった。ラブホのライターを持つことはできないんだよ」

日本中のだれもが知る人気俳優『白木蓮吾』となった真吾。高校時代、2人の憧れだった「デュポン」のライターを使いこなしながら、大貴に苦しみを吐露する。「いっそさ、やめちゃえば、芸能界」という大貴に、真吾は「無理だよ」と返す。

「どこに行っても皆が僕を知っている。白木蓮吾はここではなく、鑑賞者の中にある。やめても僕は芸能人なんだよ」

芸能人は、共同幻想だ。本人、事務所、ファン、ありとあらゆる関係者が提示する「その人らしい」色をみんなで信じること、あるいは、信じずにあたらしい色を提示することで生まれる、幻想。そのとき、ありとあらゆる色で暴力的に「わたし」はいろどられる。それが、「わたし」が思う「わたしらしさ」とは程遠い色だったとしても、そのいろどりを引き受けることが芸能界では求められる。

「わたし」が「わたし」じゃなくなる感覚の中で生きること。しかも、それが正解とされる世界で生きることは、どんなことよりもつらくて苦しいのではないか。だから、ああいう事件が起きることは、そしてああいう結末にたどり着くことは、(驚いたけれど)とても納得できる。

最後になるが、本作は人気アイドルグループNEWSのメンバー・加藤シゲアキさんの処女作である。前回の書評で、同じく現役アイドルである高山一実さんの処女作『トラぺジウム』を取り上げたが、その中で「“アイドルに向いている性質”には、表層的なものと深層的なものと2種類あって、それらが両立されるのはなかなか奇跡的なことかもしれない。」と書いた。本作の感想と合わせると、“アイドルに向いている深層的な性質”とは「本当のわたし」に執着せずにいられること、ではないかと思う。
自分が「本当のわたし」だと思う性質と、「自己イメージ」と、「他者が自分に抱くイメージ」とが重なっていること。あるいは、「本当のわたしらしさ」へのこだわりをほとんどもたずにいられること。そのように努力できること。それがなければ、あらゆる色でいろどられることには耐えられないだろう。
そして、そういう性質をもちつづけられる人は、たぶんあまりいない。だから、アイドルという存在が成立している瞬間はやっぱり、奇跡的なのだ。

ピンクとグレー
加藤シゲアキ著/角川文庫

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