ひとさらい

思い出に降ってる雨を晴らそうとまずは蛇口を締めてまわった

好きな短歌はなんですか、ときかれたとき、いちばんに浮かんだ。現代歌人・笹井宏之の第一歌集『ひとさらい』におさめられている一首だ。

「思い出に降ってる雨」という言葉からは、かなしみやさびしさ、つめたさが想起される気がする。けれど、それを「晴らそうと」するための行動として、「まずは蛇口を締めてまわった」とつづく……そこで、きっと、やさしいうたなんじゃないかな、と思うのです。「蛇口」という言葉が連想させる——小学校の水道、公園の水飲み場、あるいはアパートの狭いキッチンの流し台?——身近な生活のにおいと、なつかしさ。もしかしたら、降っているのはあたたかい雨なのかもしれない。春先にしとしと降る、湿度のたかい、やわらかい雨かな。まして、このうたのなかの誰かは、その雨を「晴らそうと」するために蛇口を「締めてまわっ」ているのだから、行動的である。ただ降られっぱなしでいるわけじゃないのだ。雨上がりの晴れ間のような、ほのかな前向きさを感じられる気がする。
(でも、もしかしたら、切実な歌かもしれないし、ユーモラスな歌かもしれないし。よみかた、感じかたは無限である。)

と、この歌が好きな理由を、なんとか言葉にしようと試みたけれども、どうにもむずかしい……。

笹井さんの歌を読んだあとは、世界中のすべてをたいせつにしたくなる。そしてそのまま、ひとり、おだやかに黙していたくなる。どんな無遠慮も、その、繭の中のとてもやわいなにかのような繊細さを圧してしまいそうで。ただ、まどろむような目線でそっと見つめていたいのだ、と。

だから、よけいな前情報はいらないから、ただこの歌集を読んでほしい。と、言いたくもなってしまうけど、それではこれを書いている意味もあんまりなくなってしまう気がするので、とりわけ好きな歌を十首、ひいておきます。

*

愛します 眼鏡 くつひも ネクターの桃味 死んだあとのくるぶし
四ページくらいで飽きる本とかを背骨よりだいじにしています
「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい
拾ったら手紙のようで開いたらあなたのようでもう見れません
三万年解かれなかった数式に雪を代入する渡り鳥
美術史をかじったことで青年の味覚におこるやさしい変化
「いま辞書とふかい関係にあるからしばらくそっとしておいて。母」
別段、死んでからでも遅くないことの一つをあなたが為した
誰の雨垂れなのかを確かめるため襖を何枚も破いている
胃のなかでくだもの死んでしまったら、人ってときに墓なんですね

*

歌集のタイトル『ひとさらい』の意味は、巻末のあとがきに記されている。人攫い? 一攫い? ひとさらい、その意味を知ったとき、ふんわりとすべてに納得した。この読後感は、ああ、ひとさらいだ。ぜひ一冊読み終えてから、この5文字に織り込まれた意味を感じてほしいです。

ひとさらい 笹井宏之第一歌集
笹井宏之/書肆侃侃房

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